「靴も手で作れるんだ」
と気づいたところが
私の出発点

2017年7月4日撮影
Profile
みさわ・のりゆき。1980年宮城県出身。
東京・浅草で7年間修行の後、2009年渡欧。オーストリア・ウィーンの靴メーカーと靴工房で研修を行う。
帰国後、2011年にMISAWA & WORKSHOPを立ち上げる。その後も皮革工芸師に4年間師事するなど
自身の創作活動の幅を広げている。
2010年ドイツ「International Efficiency Contest of the Shoemakers(国際靴職人技能コンテスト)」金メダル、そして最高賞の名誉賞受賞
2015年第33回日本革工芸展「文部科学大臣賞」受賞
岡田(SEIWA企画部、以下略)
――革に初めてふれたきっかけは何だったのでしょうか?
三澤則行 氏(以下敬称略)
私の場合、革そのものに興味があったというより、革靴に興味を持ったことが最初でした。当時大学3年生の頃です。
通学途中に靴屋が開店したんです。革靴のセレクトショップでした。価格帯で言えば10〜20万円で、輸入品のクラシックテイストなものを取り扱うお店でした。革靴が好きだったので、ふらりと入ってみたんです。すると店主や店内の雰囲気がすごく自分の感性と合いました。当時、そんな高価な靴が買えるわけでもなかったのですが、店主と話しに行くなど通い詰めましたね。
ちょうどその頃就職活動の時期を迎え、進路相談にも乗ってもらいました。将来を思案して、自分の過去を振り返ったときに「ものづくりが好き」ということに気づき、ものづくりの分野もいいなと思っていました。そして進路相談をさせてもらう中で、靴屋の店主が「靴作り」という言葉を発したんです。
それまでの自分には「靴を作る」という感覚自体がなかったので衝撃でした。「そういえば、靴も誰かが作っているからあるんだな」と当然のことを思ったんです。
――その靴屋さんが、三澤さんの将来に大きな影響をもたらしたのですね。
「靴も手で作れるんだ」と気づいたところが私の出発点でした。手製靴についての情報を集め、大学の夏季休暇中に上京して、靴の本場、東京の浅草を歩き回ったこともありました。靴屋の店主の存在は大きかったです。はじめて自分の手で靴ができたときは、うれしくて見せに行きましたし、今も年に数回、報告と相談に足を運んでいます。
――進路決定に際し、不安はありませんでしたか?
人と同じ生活をしていかないということは、一般的な感覚からはみ出てしまうことでもあるので不安でした。スーツを着て一生懸命就職活動をしている友人たちからは「靴作りとか遊びのようなことをやろうとしている。気楽だな」といって距離を置かれたりといったこともありました。私自身は遊ぶつもりはまったくなく、本気で職人になるという決意を持っていましたが、他人にはそう映らなかったようでした。
――東京での修行期間はどのように過ごされましたか?
修行中はかなりストイックな生活をしながら、1日中ひたすら靴を作り続けましたね。遊びにも行けませんでしたし、その中で辛抱しながら技術を身につけました。職人になろうとは思っていましたが、特別な高い志があったわけではないんです。何度か、もうやめたいと思ったこともありました。将来絶対にこうなりたいという明確なビジョンがあったわけでもありませんでした。気持ちの面でどん底に陥る中でも、毎日の生活でちょっといいことがあって救われ、もう少しやってみるかと気持ちを立て直したりといった繰り返しでなんとかやってこれました。
その後、靴職人としてある程度の技術を身についた頃から、真剣に独立について考えるようになりました。たどり着いた結論が、自分にはオリジナリティーや芸術的センス・知識が足りない、ということでした。そこで、以前から靴作り的にも、芸術的にも興味のあったオーストリアのウィーンに1年半のあいだ、修行に行きました。世界的に見ると、靴作りの本場はヨーロッパで、歴史や伝統もあります。その中で日本人である自分の技術はどれほどのものなのか、チャレンジするという気持ちも持っていました。ウィーンに到着してからは、実際に腕を見てから可否を判断するということで、テストを受けて、「修業させてください」というところから始まりました。
――ウィーンでの修行、生活はいかがでしたか?
当たり前の話なのですが、現地の工房の立場から考えると私を受け入れることで何らかのメリットがないといけません。大事な技術を異国の得体の知れない若者に教えなければならない理由はありませんので。そこで私は自分の技術の高さ、利用価値を毎日必死にアピールしました。しかしその行為はすでにいる職人の仕事を奪うことにも繋がりますので、職人の皆とうまくやっていくためのコミュニケーション能力も求められました。自分の居場所を確保するまでは肉体的にも精神的にも本当に大変でした。
その後は気持ちにも余裕ができ、芸術家の方のアトリエや美術館などを時間を見つけては頻繁に訪問しました。この独自の芸術の勉強が現在の自分にとって価値のあるものだったと強く感じています。
- 1三澤則行|Noriyuki Misawa
- 2私の中で、靴は工芸品として鑑賞に値する